世間では、『不動心』と言えば、「ああ、松井秀喜の……」と思う方も多くいらっしゃるかもしれません。
でも、私たち
幸福の科学の信者にとっては、やはり、まずはこちら──
大川隆法総裁の
『不動心〜人生の苦難を乗り越える法〜』ですね。

──と、ここで突然、少し昔話になりますが、私がまだ高校生の頃、そう、幸福の科学の教えなど知りもしなかったずっとずっと以前のことですが、キリスト教への入信を検討していた私は、クリスチャン(プロテスタント)だった姉に薦められて、『聖書』の中の「ヨブ記」を読みました。
けれども、当時は、姉がなぜ私にこれを薦めてくれたのか、「いいよ〜、『ヨブ記』は」と言う言葉の、その「いい」の意味するところは何なのか、全く理解できませんでした。
「かわいそうじゃん、ヨブ……」というのが、当時の率直な感想だったのです。
ところが、今になって、というか、
幸福の科学に入信した後になって、しばしば思い起こすのです、その「ヨブ記」に描かれていた、ヨブの苦悩を。
「信仰は100%を求める」と、よく言われますが、はたして、自分の信仰は本当に100%だろうか、たとえばヨブのような苦難・困難に見舞われた時、それでも自分は主を信じきることができるだろうか、主に対して、「なぜ私をこんな目に遭わすのか」と反逆心を起こさないだけの強さを本当に有していると言い切れるだろうか、と自らに問うた時、しばし逡巡せずにいられない自分を発見してしまうのです。
こんなことであってはいけない、と思う。
自分の信仰は100%だと、常に自信を持って言い切れる自分でいたい。
『不動心〜人生の苦難を乗り越える法〜』の第3章「苦悩との対決」には、この「ヨブ記」に関連して、このように書かれています。
自分が順風のとき、順調なときに、信仰正しく生きることは簡単です。
しかし、自分が非常に困難な時期にこそ、信仰が試されるのです。
人間の魂を鍛えるために、
仏神は人間に試練を与えることがあります。
魂を鍛えるために大事なのは、得意のときと失意のときです。
この二つのときに、
その人のほんとうの姿、本性が現れてくるものなのです。
得意のときに得意とならず、失意のときに失意の底にうち沈まず、
常にたんたんと努力する姿勢を、仏神は人間に要求しています。
(85〜86ページ)信仰というのは、決して抽象的なものではなく、極めて日常的な、実践的なものなのだということを改めて感じます。
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テーマ : 宗教・信仰 - ジャンル : 学問・文化・芸術